“お前のような害虫は病院を去れ”
「翔悟!部長が呼んでるぞ。マジでヤバイぞ、、、。」
いつもとちがう雰囲気だということはすぐにわかった。
私が呼ばれた先は病院の全体の取締役会、部屋の中は緊張した空気が張り詰めていた。
「あなたは医師の指示書を無視し、好き勝手に患者を治療しているようですね。他のPTは言われた事をきちんとしているのに、あなたは、なぜ出来ないのですか?あなたのように協調性がない人間は当院には必要ありません。」
クビの宣告だった。
それからというもの、誰も僕に近寄って来なくなった。リハ室内では無視、病棟に上がれば医者や看護師から、冷たい視線、笑い声、僕とは話してはいけない空気。
何が間違っていたのか?
なぜ、患者のことを考え、患者を治す自分が阻害され、のほほんと定時に帰ることしか考えていないPTが優遇されるのか、、、
「この医療業界、絶対におかしいやろ」
強く心の中で思っていた。
そして最終出勤日、上司からこんなことを言われた。
「藤井くん、君みたいな協調性がなく、組織になじめない人間に同じPTとして働いて欲しくない。私は関西地区に知り合いがたくさんいる。私の知り合いのところではPTとして働けないと思うから覚悟しておきなさい」
“あーおれ死んだ、最後の最後までおれを殺しにくるんやな”
まさに、死刑宣告
PTとして生きることを害虫みたいに駆除された。
俺の人生いったいどこで間違った?
おばあちゃん子だった幼少期

学生時代は学級委員長
兵庫県丹波市に生まれ、共働きだった両親に代わり面倒を見ていてくれたのは祖母だった。祖母は自分を本当に可愛がってくれたし、そんな祖母が大好きだった。
小さい頃から祖母に
「翔悟は将来、お医者さんになるんやで」
と言われ育てられたのを今でも覚えている。
大好きな祖母の意思を継ぎ理学療法士に

やんちゃだった大学時代
だが現実はそんなに甘くはない、当時の自分の学力では医大を目指すなんて夢のまた夢。だけど、祖母の意思を継いで、同じ医療職である理学療法士を志した。
今思い返してもあの頃は一番やんちゃしてた時期だったと思う(笑)
週末は貯金を切りくずし
勉強会三昧
そんなやんちゃだった自分を変えてくれたのが、理学療法士として出会った多くの患者さんだった。痛みで苦しむ患者さんを見て、自分が何も出来ない事を痛感したし、このままじゃいけないと思った。
なけなしの貯金を切り崩し、週末は勉強会三昧。業務終了後も同僚の体を借りて治療の練習をしていたのはこの時期だ。
そんなこんなで、少しずつ治せる患者さんが増えてきて、治療する事が楽しくなってきた矢先、、、
医療業界からの追放
死刑宣告

病院勤務最終日
1人で記念撮影
突然のクビ宣告。
患者のことを思って行動する人間が「悪」
自分のことを優先し、週末勉強会にはいかず、のほほんとただ生きているPTが「善」
最終日、俺は誰からも言葉さえかけてもらえずに病院を去った。
こんなところで
終わってたまるか、、、

独立開業当初
ポスティング三昧の毎日
理学療法士としての道を断たれてしまった自分に残されたのは、独立開業の道だけだった。
“こんな所で終わってたまるか、、、”
俺は死にものぐるいで勉強し働いた、、、